hhogのブログ

書きたいことを書いて、糧にしていく

お金のことしか考えていなかったが、そのことに無自覚だった自分

自分もそうだが、人は何故、お金というものに振り回されるのだろうか。私が今、嫌な仕事を続けているのは、それこそお金のため。それ以外の理由は本当にない。

嫌な仕事を辞めるには、他の仕事でお金を得る必要がある。それは真実だ。しかし、何よりもお金、最優先事項がお金を得ることになっている。故に、何事もつまらない。新たなことをしようとしても、面白いかどうかよりも、お金になるかどうかの方が先に立つ。

本当にお金が尽きれば、路頭に迷うだろう。でも、路頭に迷うことを恐れるだけで、そのためにお金を得ることを最優先に、いや、それしか考えていないなどという状態ではないか。現状を維持すればお金は得られる。それは確実。故に動かない・動けない。何と愚かな、というのは簡単だが、その状況から抜け出せずにいるのは、一体誰なのか。自分自身でしょう。

何事もゲームのように捉えられれば、楽なのだがな。仕事をすることも、自分に対して発生するイベントも、ゲーム感覚で捉えられれば。

お金の心配をしている自覚はあったが、よくよく考えてみれば、お金のことしか考えていなかった。自分の心が満たされない理由は他にもあるが、一番はお金。お金が入ってこなくなることを異様なまでに恐れ、それでいて無自覚であったのではないだろうか。

無自覚を自覚できた、少なくともきっかけは得られたはず。

未だにブログを開始できず

収益化できるブログを始めようとして、2週間ほど経つ。特化ブログを始める自信がなかったので、当初は雑記ブログから始めようと考え、自分なりに熟考の上、ハンドル名を決めた。ブログ名も考えた。そして、ドメインも取った。でも、ハンドル名・ブログ名・ドメイン名のいずれもしっくりこず、再考中。

自分なりによく考えて、それでドメインまで取ったのだが、取った後にどうしてもしっくりこないという状況に陥る。ブログを書き始める前にこんな状態では、いつまで経ってもブログを書き始められない。でも、ハンドル名、ブログ名、ドメイン名については、手を抜けないように思う。

この中でもハンドル名は、しっかりと考えたい要素だ。何せ、一度決めたらそう簡単には変えられない・変えない方が良い要素だからだ。個人のブランディングをしていく上で、名前をコロコロ変えてしまっては、ブランディングなど出来はしない。

それに、呼び名・語感も大事。変な呼び名、違和感がある語感では、自信を持ってその名前を使えない。

けど、弱ったな。ブログを書き始める以前の問題。だが、それでも特化ブログのネタは思いつきつつある。何もしていないわけではない。でも、進みは遅い。本気度が足りない?

テレビを観なくなったことと、自分へのインプットの関係

テレビを持っていないことについて

私はテレビ番組というものを観なくなって、既に十数年は経っている。テレビ番組を観なくなったきっかけは思い出せないが、テレビ番組が面白くない(特にバラエティ)、ニュースは基本、ネガティブな内容ばかりで気が滅入る、ワイドショー的な番組は他人の噂話ばかりで何のご利益もないと感じたのだろうと思う。これは今現在でもそう感じていることであるので、当時の判断とそう大きな差異はないと思われる。

テレビ番組を観ていないので、現在はテレビを持っていない。自分で持っていたテレビは、14型くらいのブラウン管テレビだった。そのブラウン管のテレビを処分(確か、市のゴミ処分場に持ち込んだのだと思うが、やっぱり思い出せない)した後は、テレビを買ったことがない。なので、未だに液晶テレビというものを自分のお金で買ったことがない。

テレビを持っていないので、映画や教養番組も観なくなった

テレビを持たなくなったので、当然ではあるが、どの番組を観て、どの番組を観ないかという選択はできなくなった。その結果、映画や教養番組の類も観られなくなった。そのことについては自分でも不本意な気がしたが、それらの番組を観ようとして、何かの拍子にバラエティ、ニュース、ワイドショーなどの番組に触れてしまうのは嫌だったので、テレビを持たない状態を継続している。

映画や教養番組を観ないことは、インプット不足となるのか?

しばらく前に、アウトプットするにはインプットが必要だと思えていることを書いたが、そのときに

「映画や教養番組を観ないことは、インプット不足となるのか?」

と感じた。

映画を観て感動できたり気分が上がれば、観た甲斐はあったと言えよう。他人との共通の話題にもなるかもしれない。

教養番組は、それを観て「ためになった」と思うだけでは実際には何の役にも立たないだろうが、例えば実生活で活かせることがあり、実際に活かせれば、観ただけの価値はあったとなる。

でも、どちらも漫然と観ているだけなら、いくらインプットしたところで何の役にも立たないどころか、時間の浪費でしかないだろう。それならば、自分が必要ないとしているバラエティ、ニュース、ワイドショーを観るのと違いはない。映画や教養番組を観れば時間の浪費にはならない、有益なインプットになると言い切れるわけはないな。

結局のところ、「映画や教養番組の類を観ない=単純にインプット不足」ではないのだな。

誰かと自分の比較について

誰かの出す情報を参考にして、上手に取り込めれば、それは問題ない。

だが、誰かと自分を比較してしまうと、それは問題だ。比較している時は大抵、自分が劣っているように思えてくるから。

自分が劣っているように思えてくると、実際に劣っていく。

よって、もし誰かと自分を比較し始めていることに気が付いたら、その状況から一旦離れる。気を取り直すために。

アウトプットするには、インプットから

アウトプットすることの重要性に気がついて、「とにかく何かを始めないと。だったら、ブログだ」ということに至り、こうしてブログを書いている。

本命のブログは、独自ドメインを取得して構成する特化ブログなのだが、このブログも思いついたこと、気がついたことをアウトプットする場として使っていく。

ところで、アウトプットをするなら、その元になる知識や情報は必要である。アウトプットしたいから知識や情報を仕入れるとなると不自然な気がしてしまうのだが、でも、実際問題として何かを出したい(アウトプット)のに、自分の中が空っぽなら、アウトプットのしようがない。それに、以前は関心を持ったことはよく調べたものである。

過去のことで言えば、車のことはよく調べた。最初のきっかけが何だったのかはもう思い出せないが、気がついたらクルマ雑誌を付きに何冊も買い、暇さえあればそれらを読んでいた。特に初代ロードスター、初代インプレッサを買う時は、カタログでさえ何度も何度も読み直していたものである。そうやって、車に関することを色々と覚えていった。ロードスターインプレッサ以外にもヨーロッパ車への関心が高かった覚えがある。

ただ、当時はそうやってインプットしている量は多かったが、アウトプットはしていなかったな。ブログもSNSもまだなかった時代だったが、インターネットの利用はだんだんと広まってきていて、情報を発信する人は自分でWebサイトを作って発信していた。そう、当時でも方法はあったのだ。もしあのとき、私がアウトプットすることに努めていたら、何をどうアウトプットしていただろうか。

他にも、ゲームに興味があり、ゲームに関するインプットもそれなりにあった。プレイステーションセガサターンは所持していた。でも、こちらはどんなゲームで遊んでいたのだろうか。プレイステーショングランツーリスモの3を遊んでいたような記憶はあるけれど、それ以外はよく覚えていない。

こちらもほとんど覚えていないが、テレビも見ていたはずだ。自分の部屋にテレビはあったし、何かの番組は見ていた。でも、何だったかな。

こうして書いているうちに、音楽をよく聞いていたことを思い出した。CDは多い時で300枚ぐらいは持っていたのではないだろうか。

ここで過去を振り返ったのは、過去と比較すると今のインプット量は、非常に少なくなっていると感じるからだ。インプット量が少なければ、必然的にアウトプットできる量も減る。過去の自分はインプットばかりでアウトプットはしていなかったが、インプット量自体は結構あった。関心の赴くままに情報を仕入れ、物を買い、それをインプットとしていた。それが今ではどうかというと、

  • 物事への関心が薄れ、人への関心がなくなり、世捨て人に近いような生活をしている
  • 物欲は薄れた。でも、これは肯定的に捉えている
  • テレビ番組は観ない(そもそもテレビを持っていない)
  • ネット上のものも含め、ニュースも観ない(これはインプットが必要だと思えている今でも変えない。ニュースは基本、ネガティブな内容だから。気が滅入るから)
  • SNSも使ってこなかった(LINEは本当に嫌だな。その他のSNSも)
  • テレワークになって必要な会話以外はしなくなった(雑談がなくなったし、自分から誰かに話しかけることもしていない、する気がない)

という状態。確認してみると、こんな状況だったのかと。ただ、この状況を単純に悪いと決めつけることもできない。何故ならば、自分にとって不要なものを手放せている状態と捉えることができるからだ。つまり、新たなものを入れる余地があるということ。インプットし直せる余地がある。

なお、アウトプットをしなければならない、とは考えていない。あくまで「アウトプットすることが必要だと思えた」から、行動するのである。

仕事をするなら、他人の課題や問題を解決できている実感が欲しい

誰かのためを思って動けると、良い結果に繋がる可能性が高まる。

ブログやSNSでは、他人の課題や問題を解決できるような情報を発信できると、それで成果が出ていると言える。不特定多数ではなく、わずかであっても困っている人に情報が届けば、その情報を発信した意味はあったということになる。

他人の課題や問題の解決というのは、何もブログやSNSだけに求められているものではない。いわゆる仕事もその中に入るのである。

それで、仕事をする際、他人の課題や問題の解決を図ることを意識できているだろうか。自分のことで振り返ると、今はできていない。以前はできていた。

以前はできていたという方から振り返ってみると、私は以前、社内SEおよびヘルプ対応を行っていた。PCやソフトの操作で困っている人からの連絡を受け、その問題を解決するための対応を行っていた。嫌なこともあったけれど、この仕事は性に合っていたと今でも思える。困っている人の課題を直接的に解決できた時は、満足感を感じていた。「これが自分の仕事」と思えていた。裁量も大きかったのも良かった。

今はというと、誰かの困りごとを直接解決するようなことはなくなり、自分で考えて何かの課題解決に取り組んでいるわけではなく、他の誰かから渡される課題に取り組むだけの状態。渡される課題に入れ込めれば、自分事のように取り組めれば、取り組み方や捉え方は違ったのかもしれないが、それができないということは、自分事としては捉えられていないことを示している。

そして、誰のためにその課題を行っているのかということが見えていない。社内SE・ヘルプ対応のときのように、困っている人と直接やり取りすることがないから、まるで身が入らない。困っている人を自分が意識できないから、自分としては何をどうすれば良いのか、全然見えていない。課題を提示してくる側は誰のために何をするのかということが見えているのだろうけれど、今の私にはそれが全く見えない。

今、他人の課題や問題の解決を図るようなことを意識できないのは、仕事そのものに対して関心が持てないことに加え、困っている人が目の前にいない状況で仕事をしているから。そのような状態では、私の場合はまるで駄目なようである。ポンコツとしか言いようのない働きしかできない。身が入らない状態で行っている仕事は、どこまで行っても身が入らないし、上達もしない。

今の仕事ではどうしても身が入らないと言うなら、仕事そのものを自分で変えるのが最善の道となる。どのような仕事に変えるのかというと、自分の経験や勉強したこと、関心事などを元にした記事を書き、誰かの課題を解決する。要はブログを足がかりにして、自分から情報を発信して行きましょうということ。

仕事をするなら、他人の課題や問題を解決できているという実感が欲しかったのである。仕事をすることでお金を得たいのは当然であっても、それは必要にして十分な量が得られれば問題はない。必要にして十分なお金が得られるのであれば、欲しかったのは困っている人の課題解決に役立っているという実感。

働き方を間違えていたことがはっきりした。今の仕事に対して、他人を批判する意図はない。悪者探しをする意味など、何もない。単に自分が選択を間違えていただけのことである。

会社が悪いように見えても、実際に悪いのは自分の判断

嫌だと感じる心を無視するのはまずい

例えば、会社員として仕事をするのが嫌になっているとする。嫌になっているということは、嫌だとする内容の精査は必要だとしても、嫌だと感じる心を無視してはまずい。

何故ならば、嫌だと感じていることは、何かしらのきっかけや転換点になるような出来事でもない限り、嫌なことであり続けるからだ。嫌なことをずっと続けていれば、大抵は上手にこなせないものである。他人から見たら、単に能力が低いとしか見えない。

いくら言い訳をしたところで、働き手として求められている結果が出せなければ、認められはしない。そもそも、他人に認められる・認められないという話に行き着いてしまうのである。

悪いのは何なのか?

そんなとき、会社が悪いとするのは筋違いである。会社は悪くない。そもそも、悪い会社というものは存在せず、存在しているのは悪い会社に見えるようにしてしまっている人々、つまりは人の問題である。

話が逸れたが、繰り返すと会社が悪いということはない。悪いのは、自分の判断。その状況に留まる判断をしている自分が間違っているのである。

するべきことは?

なので、もし本当に会社員として仕事をするのが嫌になっているのなら、配置転換を申し出たり、退職・転職・起業に向けた行動を取ることが望ましいのである。ただその場で嘆いたり、我慢していても自体は好転しない。

もっとも、会社員だと人事異動が行われた際に状況が変わるという可能性はある。ただ、それは自分の努力や行動の結果とは別のところで起こるのが大半だろう。なので、主体性を持った問題解決とはならず、それで問題が解決したとしても、本当に認識すべき理由(悪いのは自分の判断)に気が付けないおそれがある。

ただし、当人が冷静な判断力を失ってしまっていて、まともな行動を取れなくなっている可能性があることは認識している。そうなってしまうと、自分自身では判断できなくなってしまうから、苦しいな・・・。うつや統合失調症など、精神に問題を生じさせてしまうと厳しい。

よって、早め早めの対処と行動が必要なのである。精神に問題を生じさせてしまうと、当人だけでは解決が図れなくなるかもしれない。そうなる前に行動しよう。

なお、今の私には、精神に問題を生じさせてしまってうつや統合失調症などになってしまった場合の対応は思いつかない。