テレビを観なくなったことと、自分へのインプットの関係
テレビを持っていないことについて
私はテレビ番組というものを観なくなって、既に十数年は経っている。テレビ番組を観なくなったきっかけは思い出せないが、テレビ番組が面白くない(特にバラエティ)、ニュースは基本、ネガティブな内容ばかりで気が滅入る、ワイドショー的な番組は他人の噂話ばかりで何のご利益もないと感じたのだろうと思う。これは今現在でもそう感じていることであるので、当時の判断とそう大きな差異はないと思われる。
テレビ番組を観ていないので、現在はテレビを持っていない。自分で持っていたテレビは、14型くらいのブラウン管テレビだった。そのブラウン管のテレビを処分(確か、市のゴミ処分場に持ち込んだのだと思うが、やっぱり思い出せない)した後は、テレビを買ったことがない。なので、未だに液晶テレビというものを自分のお金で買ったことがない。
テレビを持っていないので、映画や教養番組も観なくなった
テレビを持たなくなったので、当然ではあるが、どの番組を観て、どの番組を観ないかという選択はできなくなった。その結果、映画や教養番組の類も観られなくなった。そのことについては自分でも不本意な気がしたが、それらの番組を観ようとして、何かの拍子にバラエティ、ニュース、ワイドショーなどの番組に触れてしまうのは嫌だったので、テレビを持たない状態を継続している。
映画や教養番組を観ないことは、インプット不足となるのか?
しばらく前に、アウトプットするにはインプットが必要だと思えていることを書いたが、そのときに
「映画や教養番組を観ないことは、インプット不足となるのか?」
と感じた。
映画を観て感動できたり気分が上がれば、観た甲斐はあったと言えよう。他人との共通の話題にもなるかもしれない。
教養番組は、それを観て「ためになった」と思うだけでは実際には何の役にも立たないだろうが、例えば実生活で活かせることがあり、実際に活かせれば、観ただけの価値はあったとなる。
でも、どちらも漫然と観ているだけなら、いくらインプットしたところで何の役にも立たないどころか、時間の浪費でしかないだろう。それならば、自分が必要ないとしているバラエティ、ニュース、ワイドショーを観るのと違いはない。映画や教養番組を観れば時間の浪費にはならない、有益なインプットになると言い切れるわけはないな。
結局のところ、「映画や教養番組の類を観ない=単純にインプット不足」ではないのだな。